第62回マカオGP 参戦記
勤務地の上海からマカオへと移動。
途中、香港の上を飛んでいるところをパチリ。今回はマカオへ直行でなく香港経由でマカオ入りするメンバーも多数いたようだ。
自分は上海からなのでマカオ航空便でのマカオ入りである。

現地マカオではグランプリに先立ち、スポンサー主催でチームの発表会など催されていた。
チーム代表のティディ・イップJr、ドライバーのジェイク・デニス、フェリックス・ローゼンクビスト、ランス・ストロールの3名が出席していた。この後、木曜日には支援している障がい者施設の入居者や職員を招いたイベントも行い、ドライバーとの交流も楽しんでいる。


現地入りした水曜日、すでにチームはピット内でメカニック達が粛々と作業を続けている。自分は何もやることがないのでただの見物人という立場で作業を見守る。

次のイベントはスタジオ27の石井社長がスタジオ27製のセオドール関連の模型を作製して、その贈呈式を行った。
代表のティディ・イップJrの手にはアイルトン・セナの乗ったラルト、チーム監督のディビット・ケネディの手にはウルフWR3を贈呈。それぞれ市販化を目指したモデルである。


それぞれのドライバーはレースウイークに向けて集中力を高めていくべくピットにて打ち合わせを入念に行っていく。特にフェリックスは昨年優勝したので連勝を狙っていく。

デニスは若手でまだ名前もほとんど知られていないのだが、注目株の一人である。

そしてランス・ストロール。フェラーリアカデミーのメンバーであり、来年のウイリアムズF1チームとテストドライバー契約を結んだ注目株。こちらも若手ながら将来が楽しみである。
とくに父親がフェラーリチームのサプライヤーでもあるトミー・フィルフィガーのオーナーなのでF1へ一番近いドライバーかもしれない。この父親、すごいオーラを発していた。

レースウイーク中はいろいろな打ち合わせが入っていて、首脳陣はレースもそこそこでオフィス代わりに使ったVIPルームのテーブルで書類チェックなど大変忙しい。当然昼食もこの程度しか取ることが出来ない。

そして恒例の記念撮影。

レースは様々なカテゴリーが同時に行われているので、空いた時間も出る。


そうとはいえ、レースが始まると独特の緊張感がピット内を走り、モニター画面を全員が注視する。
レースはフェリックスが大部分を支配し、予選・予選レース・決勝とすべてのセッションで貫禄の首位独走。2年連続で総合優勝を飾った。

決勝レース中にはウチの出身でOBのF1ドライバーも表敬訪問してくる。
彼は皆さんご存じのミカ・ハッキネン。
レースウイークを通じて慌ただしく時間が過ぎていったが、チームとともに素晴らしい時間を共有できた。

実は、このグランプリの翌日にはチーム首脳は慌ただしくマカオを後にし、鈴鹿サーキットへ向かった。
この2日後、鈴鹿サーキットでは来年度のスーパーフォーミュラのタイヤテストとルーキーテストが行われて、そのテストにGP2に出場したいたリッチー・スタナウエイを送り込んだのである。

リッチー・スタナウエイは来季スーパーフォーミュラに出場する予定である。

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セオドールレーシングジュニアチーム発進
自身がご縁があり、経営陣の一人として末席を汚しているマカオの名門チーム「セオドールレーシング」
このジュニアチームがいよいよ日本での初戦、鈴鹿サーキット・クラブマンレース第5戦S−FJにて開始された。
ドライバーはカートでは優勝経験もありカート界では有名な新進気鋭の岡村健。まだまだ若い19歳である。

今回のレースではレーシングスーツなど一式が1セットしか揃わずに、自身のF1時代のレーシングスーツを引っ張り出してきて練習走行時はそれを使ってもらい、本番にはチームのレーシングスーツを使ってもらうというドタバタがあったが、それも何とかクリアして迎えた予選。

3番手、2列目からスタートという好位置につけてきた。
カートで散々レースにもまれてきたドライバーなので本番にも強いはず、期待が高まった。
が、ドライバーは4輪レースデビューなので余計な期待をしてプレッシャーを掛けてはいけないと思ってはいたのだが。。。
自身は仕事で上海に来てしまっているので、チームディレクターの澤野氏がマカオから駆けつけて応援+ジュニアチーム初戦を観戦していた。

澤野氏もレース現場は慣れたもので的確に指示を出していたのであろう。気をもんでいたのは自分だけだったようである。そして鈴鹿からのレース結果を持っていた。

そしてその結果。

なんと岡村健くんはデビュー戦で優勝してくれたのである。
ジュニアチームとしてもこの結果がもたらす意味はすごく大きい。ジュニアチームも岡村くんもまだスタートに立ったばかり、これから世界に羽ばたいていく行程を見守っていきたい。
岡村くんとセオドールジュニアをサポートしてくださったスポンサー各位には感謝してもしきれない。ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。

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映画RUSHの世界
少し前に公開されたこの映画。映画館だけでなく、DVDも購入し何度も見返している。
今頃になって旬を逃したこのネタをつかってみる。実はこのネタは2輪でもイタリアンでも無いので書こうか迷っていたのだが自分の一番好きなことをやっていた時間というものも書いておくべきだと思い記してみる。

あらすじは皆さんも観ているだろうから省くが、この舞台になった76年当時高校生だった自身はこの争いを観てF1に憧れたものだった。この頃、自分にはハントはヒーローだった。そしてラウダは神。こんなイメージを持って情報が少なかった当時はそれでもレース結果を追いながら一喜一憂したものだった。
マシンはブラックビューティーだったJPSロータスにも憧れた。
プロレーサーになる道も方法もわからず、当時一般的な高校生だった自身は6年制大学を卒業して自分で稼ぐようになってから、憧れだったサーキットへようやく走り出したのだった。
プロになるには遅すぎたし、才能のかけらも無い自身は自分自身がスポンサーになるしか道は無く、少ない資金を苦労しながらやりくりしTSクラスに出場、当初は予選落ちギリギリではあったが参戦し続けた。
そして、転機は1997年、国内ヒストリックフォーミュラレースに出場して訪れた。
1999年、ロータス59Bで全日本F2 チャンピオンを獲得し、2001年よりレース本場のヨーロッパへ。2003年にも全日本F2チャンピオン2度目の獲得。



レースの本場、ヨーロッパに渡ったところでいきなりF1に乗れるはずも無し、最初の年はロータス18FJで参戦。初参戦のイタリア・モンツァではマシントラブルでリタイヤ。2戦目のモスト(チェコ)GPでは2台でのトップ争いの後の2位、モナコGPで3位、そして初優勝はドニントンパークでの雨のレース。この後何度かの優勝を経てシリーズ3位となった。
この時点でコーリン・チャップマンの長男でクラシック・チーム・ロータス主宰のクライブ・チャップマンから同チーム所有のF1で出場しないかと打診を受けた。二つ返事で引き受けたが、もちろんスポンサーなどあるわけも無く、すべて自腹(笑)
それでも高校生の時に見て憧れた世界に30年近くたってようやく自分も関わることが出来るという事実に感激し、我を忘れていた(笑)

そして、ロータスカーズ所有のヘイゼルのテストコースで体験走行をした次の日にはヨーロッパでの初優勝の地、ドニントンパークでのテスト走行を経て、シリーズ開幕戦ホッケンハイムでのF1デビュー。夢心地だった。
出場しているドライバーはみんなアマチュアではあるが、自分たちの国でそれなりのチャンピオンを獲って参戦してくる歴戦の勇士ばかりで自分リアルRUSHの世界へ。

スターティンググリッドで話しているメカニックはアイルトン・セナのロータス時代の担当メカだったクリス、後ろのメカはジム・クラークの担当メカだったボブ。
所属したチームロータスはマシンだけで無くメカニックも含めてレジェンドチームだった。

エマーソン・フィティパルディが乗っていたチャンピオンを獲得したロータス72は当初マシンの問題でなかなか完走できなくてチェッカーを受けるまで1年かかったけれど、デビューしたのと同じホッケンハイムで初完走。30数年ぶりにこのマシンが完走したといってメカニック達みんなで喜んだ。
その年のモナコでもシングルグリッドを獲得し、ますます憧れの世界に近づいていった。

映画RUSHを観ながら、あの当時の自分とオーバーラップしながら少しはあの世界に足を踏み入れることが出来たのだろうかと自問自答している。


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今頃になって旬を逃したこのネタをつかってみる。実はこのネタは2輪でもイタリアンでも無いので書こうか迷っていたのだが自分の一番好きなことをやっていた時間というものも書いておくべきだと思い記してみる。

あらすじは皆さんも観ているだろうから省くが、この舞台になった76年当時高校生だった自身はこの争いを観てF1に憧れたものだった。この頃、自分にはハントはヒーローだった。そしてラウダは神。こんなイメージを持って情報が少なかった当時はそれでもレース結果を追いながら一喜一憂したものだった。
マシンはブラックビューティーだったJPSロータスにも憧れた。
プロレーサーになる道も方法もわからず、当時一般的な高校生だった自身は6年制大学を卒業して自分で稼ぐようになってから、憧れだったサーキットへようやく走り出したのだった。
プロになるには遅すぎたし、才能のかけらも無い自身は自分自身がスポンサーになるしか道は無く、少ない資金を苦労しながらやりくりしTSクラスに出場、当初は予選落ちギリギリではあったが参戦し続けた。
そして、転機は1997年、国内ヒストリックフォーミュラレースに出場して訪れた。
1999年、ロータス59Bで全日本F2 チャンピオンを獲得し、2001年よりレース本場のヨーロッパへ。2003年にも全日本F2チャンピオン2度目の獲得。



レースの本場、ヨーロッパに渡ったところでいきなりF1に乗れるはずも無し、最初の年はロータス18FJで参戦。初参戦のイタリア・モンツァではマシントラブルでリタイヤ。2戦目のモスト(チェコ)GPでは2台でのトップ争いの後の2位、モナコGPで3位、そして初優勝はドニントンパークでの雨のレース。この後何度かの優勝を経てシリーズ3位となった。
この時点でコーリン・チャップマンの長男でクラシック・チーム・ロータス主宰のクライブ・チャップマンから同チーム所有のF1で出場しないかと打診を受けた。二つ返事で引き受けたが、もちろんスポンサーなどあるわけも無く、すべて自腹(笑)
それでも高校生の時に見て憧れた世界に30年近くたってようやく自分も関わることが出来るという事実に感激し、我を忘れていた(笑)

そして、ロータスカーズ所有のヘイゼルのテストコースで体験走行をした次の日にはヨーロッパでの初優勝の地、ドニントンパークでのテスト走行を経て、シリーズ開幕戦ホッケンハイムでのF1デビュー。夢心地だった。
出場しているドライバーはみんなアマチュアではあるが、自分たちの国でそれなりのチャンピオンを獲って参戦してくる歴戦の勇士ばかりで自分リアルRUSHの世界へ。

スターティンググリッドで話しているメカニックはアイルトン・セナのロータス時代の担当メカだったクリス、後ろのメカはジム・クラークの担当メカだったボブ。
所属したチームロータスはマシンだけで無くメカニックも含めてレジェンドチームだった。

エマーソン・フィティパルディが乗っていたチャンピオンを獲得したロータス72は当初マシンの問題でなかなか完走できなくてチェッカーを受けるまで1年かかったけれど、デビューしたのと同じホッケンハイムで初完走。30数年ぶりにこのマシンが完走したといってメカニック達みんなで喜んだ。
その年のモナコでもシングルグリッドを獲得し、ますます憧れの世界に近づいていった。

映画RUSHを観ながら、あの当時の自分とオーバーラップしながら少しはあの世界に足を踏み入れることが出来たのだろうかと自問自答している。


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ブロークンダウン
10年、7万キロをともにした我が家のSL AMG。
出先でABC警告灯が点灯してしまった。数ヶ月前にも点灯したのでディーラーに修理を依頼して、その時はリアショックからのオイル漏れを確認したので配管と左右リアショックを交換したのだが。。。

ベンツのパーツ管理がすごいのかAMGのパーツ管理がすごいのか、10年たってもほぼ同時に壊れてしまうようにコントロールされていることに感心した(笑)
そういえば同じ年式の新車で購入したE55 AMGも4年目だったが7万キロを超えたところで同じ状況で足回りの一新をした覚えがある。
当然、基本的なシャシーやエンジン自体には7万キロ程度では全く問題は出ていないし、今でも胸のすくような加速は健在である。同時期に複数所有していた何台かのフェラーリと比べても全然速いし楽だ。残念ながら燃料も加速したかのように減っていくのだが。。。。
警告灯が点いた当初は、車高を維持するためにポンプがエマージェンシーで働きいつもより高い位置で維持するようになっているそうで、何となく車高が高くてかっこ悪い。
このトラブルは出始める数ヶ月前から何となく車高が高いんじゃないか?とディーラーにも問い合わせたのだが、エラーも出ていないから問題ないとの返答が来ていたのだが、この時からポンプはエマージェンシーモードになっていた可能性が高い。
特にフロントが高くて高速を走っているとまるでショックが抜けた車になっているような不快なピッチングが起きていた。

なんとか無事にガレージまでたどり着いたのだが、その頃には「シャコウガヒクイ!テイシャ」と何度か出たり消えたりしていたが、帰り着いたときにはフロントが明らかに低い状態でスロープを下りるのも躊躇するほどであった。
こんなに低い状態は初めて見た(笑)

次の日にはディーラーに引き取りに来て貰い、再び工場入りとなってしまった。
前回と今回でアグスタの新車が軽く一台買える請求になることだろう。。。。と、ここでようやくアグスタネタに無理矢理まとめてみた。

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